数学を学校以外のどこで使うのか

スマブラパックマンのベルに当たった後、その硬直中に空上を当てられたとする。イタイ!もしも空上の当たった方向とベルの当たった方向が反対向きだったとしたらキャラの状態によっては真上に吹っ飛ぶことになる。理由はベルと空上の吹っ飛ばしの合成されたベクトルが「硬直中に食らった攻撃のベクトル」として計算されるためである。この考え方は直感的に理解できるものだし一度そういうものだとわかれば特に計算をせずとも勘で物事が飛ぶ方向がわかるようになる。パックマンのベルがどういう動きをするものなのかわからない人は以下の動画の最初の6秒を見てほしい。「パックマンのベル」とは当たるとしびれるアイテムだってことを知っておけばよい。

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さて、ここでベルの攻撃ベクトルを完全に落とされた方向に依存するものとしたらどうなるかを考えてみる。上から来たベルに当たったらそのまま自分は下に吹っ飛ぶし、右から飛んできたベルに当たったなら硬直が解けた後に左に向かって飛んでいくものとする。現実と同じ。この仕様にした方がわかりやすいし現実に近い。こんな仕様でも面白いんじゃないの?否。こんな仕様にしてしまってはゲームがぶっ壊れてしまう。例えば上からベルを敵の上に落として敵の硬直中に上スマを放つ。ベクトル計算がわかる人ならすぐにどうなるか予測できるであろう。ベルの攻撃が鉛直下向きに加わり上スマの攻撃が鉛直上向きに加わる。攻撃の吹っ飛ばしは上下で打ち消し合って0となり、敵は吹っ飛ばなくなる。そのため大きいダメージと再びの長~い硬直が敵を襲うことになりこの後にまた最大溜めの横スマなどが確定で入ってしまう。大変なことだ。ドラゴンボールのようにその場にとどまっている相手をいろんな方向から攻撃するという謎コンボが生まれてしまう。クソゲー!

Kirby - Ultimate Frame Data

上のサイトはスマブラキャラの各種技の判定の範囲と発生の速さ、硬直の長さや吹っ飛ばしの向きまですべての情報をGIF付きで載っけている優秀なサイトだ。そこを見ると、円状の攻撃範囲にかならず白い線が十字架なり直線状なりに生えているのがわかる。これは吹っ飛ばしの方向を示している。白い線の場合、当たったら必ずこの向きに吹っ飛ぶという意味だし、十字架になっているときはわりといろんな方向に飛ぶという解釈でいい。これらの「吹っ飛び線」が必ず打撃技には存在している。しかし困ったことにこの線をみただけでは吹っ飛ぶ方向しかわからないためどの方向の吹っ飛ばしが一番強いのかということがわからない。もちろんこれはゲームの情報なのでやりゃあわかる話なのですが、もうちょっと情報が欲しい人のためになんと攻撃判定の円が色分けされているのです!赤は本当て、ピンクは弱当てなのだ!わかりやすい。とってもわかりやすい。しかしベクトルを世界中の人が理解していたら攻撃判定の円とともに矢印を書き込めば吹っ飛ぶ大きさも向きも同時にわかるというものだ。冒頭にあげたパックマンの例も「硬直中の攻撃ベクトルは硬直後に合成されてキャラに加わるためキャラがはめられないためにベルの攻撃ベクトルは当たった方向に依存しない」の一言で済む。しかも正確に伝わる。
数学を勉強すると正確に物事を予測できるようになる。そのうえ複雑な事象を説明するための言葉が共通言語になる。数3を履修した者同士であれば「これは重積分と同じ考え方だよ」の一言ですむものが、履修していない者同士だと「線を積み上げて面を作って、その面を積み上げてさらに立体を作ることと同じ考え方をしているんだよ」というふうに長く説明しなければならなくなる。しかもこの説明で伝わるかどうかは怪しく、たいていは何度か説明の仕方を変えて相手に伝えなければならなくなる。苦労するのだよ。そこに労力かけてると疲れるし。時間だるいし。だが勉強するメリットはそこで終わらない。「重積分の考え方であるならばこれを二つ足し合わせても問題はないんだね」というように、発展する方法やこの先どのようなことが起きるのかのある程度の予測もできるようになる。素晴らしい。重積分を理解していれば似たようなものの処理の仕方や定量的に表す方法までわかってしまうのだ。生産的な時間が過ごせる。数学ってすごい!勉強ってすごい!

10月も終わりかけ、季節はもう秋。空気も乾燥し風邪に気を付けなければならない。あと鼻血にも気を付けなければならない。私は鼻炎持ちだ。粘膜がとても弱いので幼いころより秋と冬は毎朝鼻血が出るものと決まっている。そんな鼻血だが、誤って服やシーツについてしまうこともあるかもしれない。汚れた服やシーツを洗濯機に入れて、果たして鼻血は落ちるでしょうか?もちろん落ちません。理由は洗剤の仕組みを家庭科できちんと理解していればわかるはずだ。洗濯用洗剤は親油基と親水基の組み合わさったものである。どうやって汚れを取るかというと、繊維についた皮脂を親油基が丸めとり、親水基が水に浮かすことによって繊維と油汚れを分離させているのだ。血は油汚れではないため洗濯用洗剤を多めに入れても落ちはしない。血が油じゃないなんてどうやってわかるんだ!という人がいるかもしれないが、これまた保健体育や生物起訴でやる内容のため高校の授業をきちんと聞いていれば理解できるはずだ。血液はいくつかの成分が混ざったものでできており、そのどれもが油ではない。化学をとっていた人は油の構造も理解しているため油が血液に溶け込んでいないことはここからも理解できる。結論から言うと鼻血を落とすには大根の汁が一番良いのだが、言いたかったのは学校の授業を聞いていれば「一度洗濯してみて鼻血が落ちるかどうか見る」という工程を踏まずに予測だけで洗濯しても意味がないことがわかるということだ。さらに言えば大根おろしが一番よいという話を聞いた時に、きっと大根の酵素がなにかはたらいているのだろうということも理解できる。家庭科もすごい!勉強ってすごい!

世の中の仕組みを解明するには残念ながら高校レベルの知識が必要になるが、その基礎をつくる中学校の内容も十分に面白い。中学で習う一次関数は経済学の基礎理論を形作っている重要な一部だし大学に入ってやるモデルは一次関数を用いていることが多い。一次関数様様だな。高校の内容は学問の幅を広げて興味関心のある分野を見つけるのに最適な場所だ。といいたかったけど、全部面白そうに見えてくるから最適とは言えないかもしれない。自分の通っていた高校の先生たちには感謝してもしきれないな(ただし英語の教師を除く)。

随筆の理解とものをかくことについて

清少納言の『枕草子』は随筆である。中学で皆が習うことだ、私も例外ではない。ただ、習っても読んでも現代語訳を作っても随筆が何なのかさっぱりわからなかった。読んでいてもなにか特別な感情が沸き上がるわけでもなく情緒を感じ取るでもない。むろん、冬はつとめての情緒を中学生の自分で理解できているとしたらそれはそれで年に似合わない気もしなくはない。『枕草子』は平安期の情緒や日常を描いたものだ。現代と似ていない部分のほうが多くても不思議ではない。ところがここ数カ月文章を書き始めてからものごとを言葉で表すときに不思議な伝え方ができる瞬間を味わうようになってきた。例をいくつかあげようと思ったが、不思議な伝え方をする言葉を口に出したその瞬間、うまく表現できたことの達成感が胸に残るだけで肝心の言葉は忘れてしまうのでそれはかなわない。語彙の理解と習得が進んだからかなと思っていたがどうやらそうでもないことを知った。
panpanyaという作家の書くマンガを読んだとき、漫画と漫画の間の空白のページに一枚絵や写真、それとそれにまつわり短い日記のようなものが書かれていることに気が付いた。絵と空気管が好きで読んでいたので初めのうちは飛ばしていたのだが、読んでみるとこれがまたまた大変おもしろいのだ。どう面白いのかというと、作者が体験した瞬間を心情も含めて過不足なく追体験できている気がするのだ。それもくだらなくないがさして重要なものでもないことについてばかり書かれているのだ。あるときは道端に落ちていた空き缶が一昔前だった珍しいものだったことについて、またあるときは縁日で買った金魚だか何だかの置物について書かれていたその小さいコーナーは漫画一遍読み終わるたびに訪れるささやかな楽しみになっていた。降格とマンガを読むことが他のshくないかのように聞こえるが、楽しさの質が違うという方が正しいだろう。お菓子でも、お抹茶と一緒にいただくような水ようかんは深夜にコンビニで買うアイスクリームとは違ったおいしさ、楽しさをもたらしてくれる。それと同じであの小コーナーは作者とささやかな時間を共有できるものすごく小さい、そして大切な楽しみなのだ。
随筆とはこういったものをさすのではないだろうか。放課後の下駄箱でセミの抜け殻を見つけた時や校舎の中に松ぼっくりを見つけた時の不思議さを共有するような、日常をそっくりそのまま切り取ってしっとりと確かな質量を伴って文字におこすこと。これがもし随筆だというのなら随筆は理解できるものだ。なんてことはない、駄文だったんだな。たまに上手くかけていい気分になる、そんな駄文のことだったんだな。

橋の影

23時、本日2度目の温泉から出るとあたりはしんと静まり返っていた。この辺りは温泉街ということもあり、比較的遅くまで風呂屋が営業している。ちらほらと行灯に照らされるカップルの姿以外川の水面に映るものはなく、時折跳ねる魚が灯りを揺らしそれが実像でないことを思い出させる。少々特殊なつくりのこの温泉街は川を挟んで片側に民家がずらりと並び、もう片側に道がある。道のこちら側にはさらに温泉宿や食事処などが立ち並んでおり道と川を民家と温泉宿が挟む形となっている。特筆すべきはその民家ひとつひとつから細い橋が伸びており、道と家々をつないでいることだ。無数に架けられた橋はどれも人一人が通れる細さのため、本数のわりにごちゃごちゃとした印象を受けない。ほとんどが木で作られた簡素なものであったが、ときたま神社にあるような朱色の橋や石で作られた幅の広いものがあった。どの橋もペンキの剥がれかけていたり側面を苔が覆っており、それがこのゆったりとした街並みの重力となって空気を落ち着かせていた。どこに向かうわけでもなく歩いていた私はひときわ大きな石造りの橋の真ん中に立ち、ぼんやりと川を眺めた。川沿いに並んだ行灯の光が水面で反射されてあたたかな空間を作っていた。この川は、道は、夜から守られていた。
橋の上を通る人からは川に落とされた橋の影が見えない。斯くいう私も石橋の上から川面を見ているだけで、自分の下のさらに下に広がる暗闇を見ることはかなわないし橋がそれを許さない。誰かの家から延びる木造の橋は今晩の食材を買う母親や学校に通う子供、稼ぎに出かける父を支えている。一本一本に主がいる。そこにお邪魔して一休みをしている私は招かれざる客か。急に橋の上で立ち止まっているのが申し訳なくなっていそいそと来た道を戻る。橋を降り、左右どちらに進もうか少し悩んだ末宿に戻ることを選んだ。風呂上がりの浴衣と羽織だけでは影から身を護れる気がしなかった。

蛇の靴下

Twitterでは毎日マンガが読める。漫画家の卵や同人作家が最初の1話を公開していたり過去にコミケで販売した作品を全公開していたりするからだ。最初の1話といっても結構な分量だし、軽く30ページくらい読めることが多い。毎日毎日読んでいれば当然マンガを読む力も身についてくるもので、つまらない漫画、冷めてしまう瞬間があることにきがつけるようになっていた。初めはどんな漫画でも面白かったのだが、だんだん選り好みするようになってきたのだ。ここではおもしろくないマンガの特徴と自分がマンガやアニメに求めるものを駄作と良作を比較することで説明する。先に断っておくが私は漫画を描いた経験がない。だがここは私のブログ。私の世界。私の意見がまかり通る場所だ。
ちなみにここで取り上げる良作とは『メイドインアビス』の作者のつくしあきひと先生がTwitterで公開しているこちらの漫画のことである。

 短い漫画は2つに分類できる。1つ目は短編が1つまたは複数公開されている場合で、一応完結している物。例えば同人作家が公開している過去作や、過去にコンテストに応募したときんお作品を今になって漫画家先生が公開している場合などだ。もう1つは定期的に更新される作品。例えば竜ケ崎さんやうざい上司、今どきの若いもんはなどが有名どころだろうか。キミヲアライブという作品の1話をまるまる公開していた恵口公成先生が亡くなられたのは記憶に新しく、痛ましい。好きな作品だったので本当に残念だった。以下にリンクを張るので是非とも読んでほしい。

  私が面白くないと感じてしまうのは作品のテーマが慣用句やほかの作品だったりする場合だ。よくあるのは「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」をマンガの締めに持ってくる場合だ。具体例としては小説『塀の中の美容室』のコミカライズ作品の試し読みのこちら。このお話自体は悪いものではないし素晴らしいと思う。が、漫画としては面白くない。

なぜかこの「井戸の中の蛙大海を知らず」の存在しない下の句、やたらといろいろな作品に使われており作家の人気ナンバーワンになっている気がする。一見いい話の締めのようにも思えるが、私はこのような表現を用いられると一遍に作品が稚拙なものに見えてしまう。理由は2つ。一つは視覚情報を付加することができる漫画媒体であえて文字媒体である慣用句を用いることがマンガの強みを殺しているから。もう一つは想像力の限界が示されてしまっているからだ。
漫画が素晴らしいのは視覚表現で作者の伝えたい「かっこいい」「美しい」などの心情風景を言葉を介さずに伝えることができ、さらにそれをコマ割りの工夫や台詞の入れ方で変化させることができるところだと思う。たとえば森の中に突然出現した静謐な廃教会を描写するとき、細かいコマ割りで細部を書き込まずに見開き全部を使って教会の全体像を描くと思う。理由は森の中で突然出現したというシーンの移り変わりを主人公目線で読者にみせたいからだ。通常のコマで教会にたどり着くまでの情景や会話を描写し、突然見開きいっぱい使うことで教会の異質さと規模、謎に包まれた場所であることを視覚的に伝えることができる。また見開きいっぱい使うと、「この教会は物語における重要な場所ですよー」というメッセージを伝えることもできる。文字情報では伝えられないインパクトを一瞬で伝えることができるのだ。心情描写にしても同じ。「懐かしい夏の暑さ」という表現が用いられていたとする。このとき読者が思い浮かべるなつかしさは夏休み最終日に宿題を終わらせようと机にかじりついているときの部屋の妙な蒸し暑さと焦燥感がないまぜになったときの「暑さ」なのか、それとも喘息で一度も入れなったプールの授業をプールサイドの日陰で眺めるとき、二の腕にじわりと浮かぶ汗の不快感と塩素の香るあたたかな空気の「暑さ」なのか。言葉で表現をするとそこにはぶれが生じ、想像力が働く。これ自体は別にいいことなのだが、漫画の没入感との相性が良くない気がする。主人公目線でものごとを見ているとき、主人公が痛がっている描写を見て「ああこれは体育館で膝を擦りむいた感じのあの絶妙な痛さだな」とか考える人はおそらく少数派だ。そのため上記の漫画にあるような受刑者の自省心とそこから立ち上がり、自分の身の丈に合ったできることを見つけてひたむきに頑張る姿を描写するときに生活に身近な慣用句を用いてはならないと思う。読者の大半は犯罪を犯して刑務所に入ったことはないため受刑者の心情とそれをおもんばかる管理人さんの気持ちは想像でしかわからないが、その未知なる感情を想像することこそが物語の醍醐味だ。その気持ちを「井の中の大海を知らずされど空の青さを知る」という聞きなれた慣用句で表してしまうと、想像力が停止してしまう。どういうことか。慣用句は身近な問題や教訓を伝えるために人が編み出した共通の言語であるため、とても身近でパーソナルな情景を思い出す言葉となっている。読者個々人に生じるそのブレを「井の中の蛙…=管理人さんの伝えたかったこと」というふうに明言してしまうことで人々の中で想像される「管理人さんの心情」がこの言葉の範囲内に限定されてしまう。これは読者の自由を制限することになるし大変狭い領域でしかこの管理人さんの思いを受け取ることができなくなってしまう。言葉を使わずに美容院の天井だけを映したのならば、読者は管理人さんの思いを知ったうえで受刑者と同じ目線で天井を眺めることができ、一人ひとり違ったメッセージを推測することができる。そこに言葉を使って表現を行うことは野暮でありメッセージ性をそぐことになる。例えるならば道徳の時間の心のノートで「この行いは正しかったでしょうか?」と問いかけられてるような気分である。「型」を見せない方がよかったのだ。
ものごとを言語化できる人は頭がいいという話はよく聞く。そして現代においてこの頭の良さや知性が一つのステータスとなっていることはオタクの窓から世界を眺めている私にもわかる。だが言語化することは正確に思いを伝える手段として優れているだけであってメッセージを届ける方法としては不適切だ。個々人によってそのメッセージが少しずつ変化することこそ抽象的な感情の配達のみが成しえることだし、そこには感情のゆらぎが必要となる。そして自分の記憶を振り返る際に物語から受け取った新しい見方があるから個々人の感情もメッセージに合わせてゆらぐし、揺らぎによって生じるものが「感動」なのではないだろうか。

つくしあきひとさんの漫画を読んでほしい。そこには幼いころに読んだ絵本と同じ未知の世界が広がっていた。初め私は糸という表現から芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を想像した。本作が違っているのは現世が別に不幸な場所でも脱出したい場所でもないところと、糸を上る理由が孤独の自覚と好奇心だということ。そして話の焦点が定まっていないところだ。この物語はある少女の悲しみと決意、そして少女が居る世界を描いているがそれ以上のものはない。世界を、少女を眺めて私は少女の孤独と寂しさ、たどり着いた先に何もないのではないかという恐れをひしひしと感じとったがそれは私の体験でありそこに言葉はなかった。言い表せない感情と感動は美しい世界と少女を見ることで生まれたものだしそれはコマを見ることで一部自発的に生まれたものだ。読み終えた時の不思議な浮遊感はほかの人と共有しようにも口にした瞬間に消えて落ちてしまう泡沫だ。これはそういう作品だし漫画という表現手段が最大限生かされているように思える。言葉はいらず、はじめからそこになかった。

強さを求めて

何かに一生懸命になっている人の姿はそれが何であれかっこいいらしい。ほーん。一生懸命腰を振っている人もかっこいいんだ。間抜け面に見えないんだ。欲望のままに運動をしているその様はかっこいいものとして皆受け止めてくれるのか。ふーん。てへ

スマブラスマブラカービィが弱いゲーム。幾度目かの神の仲裁によりそこまで弱くはなくなった。
スマブラスマブラ。性格が出るゲーム。戦って勝つことよりも勝利そのものが欲しい人は、強さを求める人とは分かり合えない。
スマブラスマブラ。思い出の詰まった懐かしいゲーム。神様はキリギリス。

初めてゲームを触ったのはスクールバスの中だった。近所のおてんばな女の子がゲームボーイのマリオをもってきて一人でやっていた。何をしてるの?と尋ねると貸してくれて少しだけやらせてもらえた。4回やって4回とも最初のクリボーに当たって死んだ。操作精度とかコントロールの方法がわからなかったとかではなく、初見殺しに4回も引っかかったのだ。前に進むとクリボーが出てくるのだが、そのクリボーが出てくる場所がちょうど頭上にブロックが出現するタイミングと同じだったのだ。ブロックが邪魔でジャンプはできず、一度引こうにもBダッシュの慣性ですぐには止まれない。迫りくるクリボー、止まれないマリオ。反転に成功したその瞬間、クリボーがマリオと当たりマリオは死亡。Life×02.冷静に考えて、クリボーが屋根ブロックのある所から出てきてくれるまで待てばいいのだが6歳の私はそんな忍耐力をもってはいなかった。GAME START!は徒競走のよーいドンと同じ意味だったし、早く走ることしか知らなかった私は愚直にクリボーに向かって突進し続けた。4回しか挑戦しなかったのは、そこまで見ていた持ち主の子がしびれを切らしてあたしがやる!とゲーム機を取り上げお手本を見せてくれたからだ。しかしお手本を見せてくれるということはすなわちゲームが続くことであり、結局5度目のチャンスは訪れなかった。
あれから13年。友達の家でたまにやるスマブラくらいでしかコントローラを握れなかった私はとうとう大学受験後に初めての自分のゲーム、DSLiteカービィのスパデラを購入。その日の晩は眠らなかった。大学に入ってからも抑圧からの反動で様々なゲームを購入し、SwitchとPS4を1台ずつ、ジャンクのPS2を2つ(うち片方は修理済み)、ジャンクのPS3を2つ(片方は動作不良なしもう片方は未修理)所持するに至った。幸い中古のゲームソフトは大変安く、3000円ほどで12本のゲームが手に入った。ラチェットアンドクランクやFFXなどの往年のゲームからOctopath Travelerまで、はては沙耶の唄天使の二挺拳銃などの㍶ゲームにも手を出し始めた。自転車で15分で行ける秋葉原は自分の庭と化し、ゲームショップやホビー店のジャンクボックスは宝の山だった。いろいろなゲームを修理したPS2で遊んでいたが、スイッチに手を出した大学2年の春が決定的だった。ゼル伝スマブラに生活は毒され成績は目に見えて落ちた。後悔は一切していないが、とりあえず親がゲームを買ってくれなかった理由ががわかった。一番やりこんでいたスマブラはすくなくとも寮の友だちと1000時間以上やったし得た学びも大変大きかった。スマブラから得たもので一番大きかったものは、自分が感情のコントロールが下手糞だということに気付かされたことだ。

飛び道具で永遠と牽制され、最後に雑な大技で撃墜されると相手とリアルファイトを始めたくなるくらい頭に血が上ったし先輩後輩関係なく暴言を吐きまくった。壁は殴るし無言で相手に勝負を挑み続ける戦闘狂になっていた。判定負けをするたびに抗議の声を上げたしひたすら待つ戦法をとる先輩に対してはどうせ人生も同じように何かを待ち続けてんだろ負け犬がと煽り散らした(試合は負けた)。平気で学歴マウントをとったし人格否定は日常茶飯事だった。勘違いしてほしくないのは、スマブラで負けること自体よりも闘えないことやずるい戦法に対して腹を立て、場外乱闘を繰り広げたことだ。負けは負け。自分が弱い。だが闘おうとしない人やせこい戦い方をする人は許せなかった。寮の壁を殴って穴をあけるまで感情をコントロールすることを覚えなかった。ゲームで負けることがこんなにも腹立たしいと思わなかったしこれほど自分が短気だとも思っていなかった。
対戦ゲームは性格が出るという。面と向かって相手と拳で闘いたい人は近距離キャラを使うし、パワーで相手を叩き潰したい人は重量級を。やられる相手を見て楽しむ人は飛び道具をたくさん持ったキャラクターを使う。キャラランクに基づいてキャラを選ぶ人は闘って勝ちたい人だし、弱くても特定のキャラを使っている人はそのキャラを使うこと自体に喜びを感じている。私はカービィを選んだ。徒手空拳で闘うファイターであり、70キャラ以上いる中で最弱キャラといわれていた。つまり私は素手で相手と殴り合うのが好きなキャラ愛の強い人だったのだ。そんな私はゲームが下手だったため相手に突っ込むことしかしていなかった。15年前のスクールバスと同じ。近距離で闘いたいから相手に近づく。そして殴る。相手はそれを理解しているので攻撃をかわす。私は殴り返されたりビーム攻撃を受けたりなど手痛い反撃を食らい負ける。FPSでよく言われている言葉に「引くことを覚えろカス」があるが私の場合は「殴りかかる以外のことをやれよゴミ」だ。負けた時の相手への対応も同じ。相手は確かにずるい戦法をつかってくる性格終わってるゴミクズかもしれないが俺はそのゴミクズに負けた。理由は動きが単調だったから。一度身を引いて冷静になって相手を観察することを心がけよう。負けるたびにそう思うようになってから物凄いスピードで上達した。寮で一番強い先輩と互角に渡り合えるようになったし、ゲームを触り始めた時は雲の上の存在だと思っていた同期はツイッターを眺めながらボコれるようになった。自分が強くなることは楽しかったし快感でもあったが、寮の中でしか対戦していなかったため井の中の蛙が見事に生成された。スマブラサークルに入るとまたまたボコられた。けれど今回は強くなりたいと思っていたから貪欲に相手を見るようになった。負けても相手に対戦を申し込み続けるのは自分のいいところだと思ったため対戦回数だけは積み重ね、負けるたびに相手の動きを記憶しパターンを見出そうとした。いまだに相手にキレることもあるが仕方がない。ゲームを始めてまだ1年だ。相手には申し訳ないが今まで一切ゲームを触ってこなかった人が、ほかの分野でひたすら勝ち続けてきた人が無様に負けているんだ。大目に見てやってくれ。うむ。これを免罪符に今日もイライラを積み重ねていこう。

濁流、清流、干ばつ?

インプットがない状態でアウトプットをし続けるとストックが尽きてくる。言葉は違えど母がいつも私に言っていることだ。勉強し続けないと、本を読まないと、人間としてドンドン薄っぺらくなってしまうよと実家にいるといわれる。確かに昔はたくさん本を読んでいたけど、動画やゲームとか面白いことがたくさんある中であえて本を読むことに魅力を感じなくなってしまった。ものかきという人種の知識レベルや教養度が漫画家のそれよりも高いのはわかる。職業への偏見かもしれないが、作家という人たちは往々にして頭がいいように思える。語彙力がないと的確に自分の脳内イメージや伝えんとする意見、首長や論理展開を正確にそして感情をのせて伝えることは困難だからだと思う。漫画家やイラストレーターは読者に伝える情報が多くなるため言葉の背景や世間で使われている語彙の感覚、世俗的ステレオタイプを前提とした言葉選びをしなくともイメージの共有によってより直感的に情報を伝えることができる。絵はその点便利かもしれないが、背景知識というか文化の理解度、作者の脳内で有機的につながっている情報の量は物書きのほうが多いように思えてしまう。むろんイラストレーターがバカだと言っているわけではなく、必要となる技術やスキルが違うといっているだけだ。私は絵描きを尊敬しているし生まれ変わったら絵をかくのが好きな人に生まれ変わりたいと考えている。イラストレーターの生み出す世界を毎日楽しく見て回っているし私の人生を彩っている大切な要素だ。だが知識、文化、教養レベルの話となるとイラストにはない自由度が文字情報にはあるためテキストのほうが幅広い分野で、奥深く情報を伝えられる。例えば「夏休みの祖父の家、暇を持て余して眺める蚊取り線香の煙。」の一文を絵で伝えようとするとその情報量は数MBになるかもしれないが、テキストは読み手の記憶に存在するイメージを引き出す役割を持っているため、数KBで映像、音、匂い、心情などの五感情報を読者に伝えることができる。そのため情報の正確さには揺らぎが生じてしまうがそれは仕方がない。そこが醍醐味でもあるのだから。不思議なのはその脳内イメージを見たこともない世界、経験したことのない事柄についても描くことができる点であるが、その不思議さはまた今度追求していこうと思う。本稿の冒頭で言っているインプットとアウトプットに話を戻そう。これらはそれぞれ別の働きを指している言葉だ。

インプットとは自分の中に存在する経験や心情の在庫のことであり、アウトプットとは他人の心の中にあるイメージを頼りにして言葉を立てていくこと。インプットは感性豊かな読者であるために、アウトプットは感性を呼び覚ませるような文を書くために必要だ。たしかに私は最近本を読んでいないし外に出て何かを見ることもでしていない。しかしアニメは毎日見ているしゲームも毎日しているし友達と毎日会話もしている。ん?これ終わってね?普通にインプット足りて無くね?あれ?やばくね?なんか自分で書いてて情けなくなったな。最近ゼミの論文発表のために論文を漁り始めたけどやっていることといえばそれくらいだな。論文はすなわち論理展開と知識の融合物だから感性を刺激されるようなハッピーな詩とか悲壮な文学作品を読まないと自分の心の中のイメージの在庫が増えることはない。文学作品を早急に読まなければ!と今までは本気で思っていた。
毎日㍶画面以外でけっこう楽しく見ているものがある。それは空だ。少し体を傾ければ4階の高さから見晴らしのいい東京の住宅街と大きな空をいつでも観察することができる。毎日眺めているだけあって建物の形には飽きてしまった。それでも雲の形や空の色、風の強さが毎日毎日違う景色を作るので空はとても面白い。形が複雑すぎて言葉に表せない入道雲やゆっくりと空を横断するぽわっとした塊の雲を眺めていると時間がいつの間にやら過ぎている。遠くまで見渡せる4階に住めてよかった。夜になると月の色とか形がかわっていて面白い。ここ最近は黄色い月をよく見ていたが、夜の散歩で別の角度で月を見上げた時、満月が真っ白に輝いていた。不思議だった。角度によって違う色に見える原因はさっぱりわからなかったけど、不思議は不思議のまま置いておくことにした。
友だちと歩いているときに見上げた空がおもしろいとそれを友達によく伝える。しかし共感してもらえることよりも空に注目していることに対するコメントのほうが大学に入ってから多くなってしまった。書物によるインプットの量が少なかったとしても自然物にの観察を続けていれば心が廃れることはないと思うし感性も擦り切れてしまうことはないと思う。身近な感動を最大限楽しめているのだから。一緒に空を見て歩く友達、募集中。

アウトプットについてはそうもいかない。自然のものを楽しんでいるだけでは廃人のような語彙力になってしまうし、そもそも言語は人に何かを伝えることでしかは鍛えられない。だからこそ始めたこのブログなのだが、毎日友達と通話しているだけでも十分に意識すれば幅広い日本語の言葉を使って会話をすぅることはできると思う。たしかに本を読むことでもっとおもしろくて適切な言葉の選び方ができるようになるかもしれない。でもインプットとアウトプットの練習を目的に本を読むよりも、空を眺めていた方が、友達と話していた方が楽しい。

海外オタクくん

どうも、オタクです。Youtubeで昔から好きなボカロ曲を聴いてるときに、ふとコメ欄を除いてそこが英語で埋まってること、ありませんか?好きなVTuberの切り抜きとかに行ってニコニコしながら動画を見た後にコメ欄をみて英語ばっかで萎えたこと、ありませんか?僕はあります。
嫌いです。
英語コメが、海外オタクの侵食が、嫌いです。
怖いです。
変化を、拒絶します。
ネットは世界を相手にしているし海外ビューワーが増えることは純粋に視聴者が増えてファンが増えることだ。それはわかる。喜ばしいことだ。自分の押しには才能があると思ってるし天性の可愛さや面白さをもってると信じている。だから推しているんじゃないか。でもそれとこれとは違うんだ。英語コメは、海外コミュニティは怖いしそれが「ファン」という性質を持つと途端に凶悪なものに変容すると思う。

こいつも排他的な日本人の典型なんだと思う前に待ってほしい。私は幼少期の10年間をアメリカで過ごし、義務教育の大半もあちらで受けた真正のバイリンガルだ。日本文化の理解の仕方もアメリカ文化の理解の仕方も、日本人アメリカ人どちらにも属さない人だ。異文化理解は常識だと思っているし別に海外が嫌いなわけでもない。日本の文化圏を相手に作られたものを海外の人が見ることも楽しむことも別に悪いことだとは思っていない。ただ海外からの意見を取り入れる必要はないしファンコミュニティが混ざるような環境は積極的に避けるべきである。なぜなら「日本文化圏向けに作られた作品・エンタメ」だからだ。

異文化理解はどこまで行っても「異文化理解」のままだし理解しただけであってもそれが肌感覚として自分のものになる日はそうそう来るものではない。ソースは俺。日本に住まなければ、アメリカに住まなければその土地の文化は肌感覚として自分のものにならないしたとえなったとしても自分の母国の価値観が大きくその視点を影響する。そのため日本の文化圏向けに作られるものが真に海外の人たちの理解を得られる日は永遠に来ない。なぜなら前提知識、教養、当たり前や常識の情報量が莫大すぎるからだ。日本は朝5時になると郵便配達のバイクの音が鳴る。アメリカにはそんなものない。日本の夏は暑い。エアコンをつけないと蒸し暑すぎて寝れない夜もあるよな?アメリカは全館空調システムだ。ああ、セミがうるさいし蚊もうざったいしゴキブリが出る日は恐怖の一言だよな?アメリカにry…日常レベルで違うことがありすぎる。それらが複雑に絡み合って形作られた言語についても同じだ。「いやん!」という喚声を説明するのにどれだけのテキストが必要になるか想像したことはあるか?
エンタメなんて前提知識の上に成り立っている産業の最たる例だ。そこに言語の壁が存在する限りはコミュニティを言語ベースで分けるべきだと思う。

途中で書きだめていたらどこまで書いたかわかんなくなったし読み返すのも面倒になったのでここで投稿しちゃえ。いつかまた書き直す