嫉妬と趣味について

誰かに嫉妬することが昔に比べて減った気がする。スマブラがうまい友人やプロで活躍している選手、アニメの話をするだけで儲かっているYouTuber、背が高くて勉強もできる裕福な家庭のクラスメート。以前はそれらに激しく嫉妬していたし、その人たちに負けてたまるかと躍起になって頑張っていた。けれども今はそんなことはない。すごいなーと思うことはあっても、自分のほうがこういう面で優れているしと心の中で焦ることもなくなった。理由はすごく単純で、その人と自分自身を比較してみている対象(母親)から離れることができたからだ。ことあるごとに比較されていたわけではないが、新聞に何かを達成した高校生の記事が載るとその切り抜きを読まされたし、同じ中学に通っていた知り合いが何かの大会で優勝するとそれを食事中に話されていた。自分が勉強ができなかったりアニカの大会で優勝できなかったことを母に愚痴るとほかのすごい人たちがいかにさらなる努力を積み重ねてきているか話され、負けた責任も物事を続けられない責任もなぜか自分で重く感じ取るようになっていた。大人になったら責任を負わなきゃいけないことが増えるよとひたすらに教えられて育ったけど、増えた責任はどれも些細なものばかりだった。むしろ親の期待に応える責任から解放されて、そもそもそんな責任を感じていたこと自体に気が付けて本当に良かった。

嫉妬が減った代わりに、何かを成し遂げた人を見たりそういった人の話を聞いたりしたときは自分が本当に好きなものは何だろうかと考えるようになった。当たり前のことだけど、私は私が一番好きなことをして生きていたいしやりたくないことはやりたくない。自分の好きな分野でならいまだに嫉妬はするし負けず嫌いも根強く残っている。自分が好きだと胸を張って言えることはスマブラ、アニメ、読書、食事、運動の4つ。マズローの欲求階層説に従って分類するならば、食事と運動は生理的欲求にあたる。運動については誰かと勝負をする楽しさも一部含まれているため生理的欲求以上の側面もあるけれど、山登りとかも大好きなのでやっぱり生理的欲求が一番分類していると近いかも。スマブラとアニメがどれに分類されるのかは正直わからないけど、今はアニメやゲームに関連した仕事に就けているから階層説とか関係なしにい感じに満たされているし、自分の時間の8割くらいは好きなものなんじゃないかな。好きなものが何か考えるときに必ず確認するのは、部屋に一人の時でもそれをしていて楽しいかどうか、というところ。これまで自分が実家にいたときは母親に生活をコントロールされていたこともあって、自分がそのものごとが好きなのではなく、自分がそれをしている時の他人の反応とか感情が好き、ということがよくあった。だから今はデュエマに結構はまっているけれども、これは一緒にデュエマをする友達がいなくなった瞬間辞めると思うからデュエマが好きなのではなく、デュエマをしている友達と遊ぶのが好きなんだと思う。いい友達を持ったものだ。

対戦ゲームという性質上スマブラも「友達とするのがすき」なものであって自分自身が本当に好きな物事の対象にするのは無理なのではと思っていた。でも一緒にスマブラをしていた先輩が寮をやめたとき、最初に取った行動がスマブラをする仲間をどうやって集めるか考えることだったのでやっぱりスマブラが好きなんだと思う、オフ会にも行ったし大会にも出た。Discordのサーバーはほとんどがスマブラ関連だしYouTubeのホーム画面もスマブラまみれなことがよくある。スマブラをやっている旧友を探したりその旧友のもとへ夜行バスを乗り継いで行ったのはさすがに情熱が最高潮の時だったからできたことだとは思う。それでも今も好きだしスマブラをする仲間は常に求めている。スマブラは今や立派な趣味になっている。大金持ちになったら日本でEVOに匹敵するような世界最大級のスマブラ大会を開くのが夢だったりする。ビッグサイトを会場にして、最寄りのよさげなホテルにPGRU上位50名は費用こっちもちで招待した場合の概算もした。賞金は出したいけど、それは桜井さんとかいろいろなところに許可をもらわないといけないだろうから大変だ。

話はそれたけど、最近感じていた自分の趣味の話と嫉妬の話でした。小学校とか中学校のとき、美術の時間に「好きなものを書いて」といわれて何も思いつかなかった絶望感は今でも覚えてるしそれがきっかけで美術と図工が苦手になったと思う。今も胸を張ってこれが好きですって言えるものがあるかと聞かれたら絵に残せるものはあまりないかもしれないけど、ちょっとずつ自分の好きなものを声に出して言えるようになれたらいいなと思う。