随筆の理解とものをかくことについて

清少納言の『枕草子』は随筆である。中学で皆が習うことだ、私も例外ではない。ただ、習っても読んでも現代語訳を作っても随筆が何なのかさっぱりわからなかった。読んでいてもなにか特別な感情が沸き上がるわけでもなく情緒を感じ取るでもない。むろん、冬はつとめての情緒を中学生の自分で理解できているとしたらそれはそれで年に似合わない気もしなくはない。『枕草子』は平安期の情緒や日常を描いたものだ。現代と似ていない部分のほうが多くても不思議ではない。ところがここ数カ月文章を書き始めてからものごとを言葉で表すときに不思議な伝え方ができる瞬間を味わうようになってきた。例をいくつかあげようと思ったが、不思議な伝え方をする言葉を口に出したその瞬間、うまく表現できたことの達成感が胸に残るだけで肝心の言葉は忘れてしまうのでそれはかなわない。語彙の理解と習得が進んだからかなと思っていたがどうやらそうでもないことを知った。
panpanyaという作家の書くマンガを読んだとき、漫画と漫画の間の空白のページに一枚絵や写真、それとそれにまつわり短い日記のようなものが書かれていることに気が付いた。絵と空気管が好きで読んでいたので初めのうちは飛ばしていたのだが、読んでみるとこれがまたまた大変おもしろいのだ。どう面白いのかというと、作者が体験した瞬間を心情も含めて過不足なく追体験できている気がするのだ。それもくだらなくないがさして重要なものでもないことについてばかり書かれているのだ。あるときは道端に落ちていた空き缶が一昔前だった珍しいものだったことについて、またあるときは縁日で買った金魚だか何だかの置物について書かれていたその小さいコーナーは漫画一遍読み終わるたびに訪れるささやかな楽しみになっていた。降格とマンガを読むことが他のshくないかのように聞こえるが、楽しさの質が違うという方が正しいだろう。お菓子でも、お抹茶と一緒にいただくような水ようかんは深夜にコンビニで買うアイスクリームとは違ったおいしさ、楽しさをもたらしてくれる。それと同じであの小コーナーは作者とささやかな時間を共有できるものすごく小さい、そして大切な楽しみなのだ。
随筆とはこういったものをさすのではないだろうか。放課後の下駄箱でセミの抜け殻を見つけた時や校舎の中に松ぼっくりを見つけた時の不思議さを共有するような、日常をそっくりそのまま切り取ってしっとりと確かな質量を伴って文字におこすこと。これがもし随筆だというのなら随筆は理解できるものだ。なんてことはない、駄文だったんだな。たまに上手くかけていい気分になる、そんな駄文のことだったんだな。