橋の影

23時、本日2度目の温泉から出るとあたりはしんと静まり返っていた。この辺りは温泉街ということもあり、比較的遅くまで風呂屋が営業している。ちらほらと行灯に照らされるカップルの姿以外川の水面に映るものはなく、時折跳ねる魚が灯りを揺らしそれが実像でないことを思い出させる。少々特殊なつくりのこの温泉街は川を挟んで片側に民家がずらりと並び、もう片側に道がある。道のこちら側にはさらに温泉宿や食事処などが立ち並んでおり道と川を民家と温泉宿が挟む形となっている。特筆すべきはその民家ひとつひとつから細い橋が伸びており、道と家々をつないでいることだ。無数に架けられた橋はどれも人一人が通れる細さのため、本数のわりにごちゃごちゃとした印象を受けない。ほとんどが木で作られた簡素なものであったが、ときたま神社にあるような朱色の橋や石で作られた幅の広いものがあった。どの橋もペンキの剥がれかけていたり側面を苔が覆っており、それがこのゆったりとした街並みの重力となって空気を落ち着かせていた。どこに向かうわけでもなく歩いていた私はひときわ大きな石造りの橋の真ん中に立ち、ぼんやりと川を眺めた。川沿いに並んだ行灯の光が水面で反射されてあたたかな空間を作っていた。この川は、道は、夜から守られていた。
橋の上を通る人からは川に落とされた橋の影が見えない。斯くいう私も石橋の上から川面を見ているだけで、自分の下のさらに下に広がる暗闇を見ることはかなわないし橋がそれを許さない。誰かの家から延びる木造の橋は今晩の食材を買う母親や学校に通う子供、稼ぎに出かける父を支えている。一本一本に主がいる。そこにお邪魔して一休みをしている私は招かれざる客か。急に橋の上で立ち止まっているのが申し訳なくなっていそいそと来た道を戻る。橋を降り、左右どちらに進もうか少し悩んだ末宿に戻ることを選んだ。風呂上がりの浴衣と羽織だけでは影から身を護れる気がしなかった。