蛇の靴下

Twitterでは毎日マンガが読める。漫画家の卵や同人作家が最初の1話を公開していたり過去にコミケで販売した作品を全公開していたりするからだ。最初の1話といっても結構な分量だし、軽く30ページくらい読めることが多い。毎日毎日読んでいれば当然マンガを読む力も身についてくるもので、つまらない漫画、冷めてしまう瞬間があることにきがつけるようになっていた。初めはどんな漫画でも面白かったのだが、だんだん選り好みするようになってきたのだ。ここではおもしろくないマンガの特徴と自分がマンガやアニメに求めるものを駄作と良作を比較することで説明する。先に断っておくが私は漫画を描いた経験がない。だがここは私のブログ。私の世界。私の意見がまかり通る場所だ。
ちなみにここで取り上げる良作とは『メイドインアビス』の作者のつくしあきひと先生がTwitterで公開しているこちらの漫画のことである。

 短い漫画は2つに分類できる。1つ目は短編が1つまたは複数公開されている場合で、一応完結している物。例えば同人作家が公開している過去作や、過去にコンテストに応募したときんお作品を今になって漫画家先生が公開している場合などだ。もう1つは定期的に更新される作品。例えば竜ケ崎さんやうざい上司、今どきの若いもんはなどが有名どころだろうか。キミヲアライブという作品の1話をまるまる公開していた恵口公成先生が亡くなられたのは記憶に新しく、痛ましい。好きな作品だったので本当に残念だった。以下にリンクを張るので是非とも読んでほしい。

  私が面白くないと感じてしまうのは作品のテーマが慣用句やほかの作品だったりする場合だ。よくあるのは「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」をマンガの締めに持ってくる場合だ。具体例としては小説『塀の中の美容室』のコミカライズ作品の試し読みのこちら。このお話自体は悪いものではないし素晴らしいと思う。が、漫画としては面白くない。

なぜかこの「井戸の中の蛙大海を知らず」の存在しない下の句、やたらといろいろな作品に使われており作家の人気ナンバーワンになっている気がする。一見いい話の締めのようにも思えるが、私はこのような表現を用いられると一遍に作品が稚拙なものに見えてしまう。理由は2つ。一つは視覚情報を付加することができる漫画媒体であえて文字媒体である慣用句を用いることがマンガの強みを殺しているから。もう一つは想像力の限界が示されてしまっているからだ。
漫画が素晴らしいのは視覚表現で作者の伝えたい「かっこいい」「美しい」などの心情風景を言葉を介さずに伝えることができ、さらにそれをコマ割りの工夫や台詞の入れ方で変化させることができるところだと思う。たとえば森の中に突然出現した静謐な廃教会を描写するとき、細かいコマ割りで細部を書き込まずに見開き全部を使って教会の全体像を描くと思う。理由は森の中で突然出現したというシーンの移り変わりを主人公目線で読者にみせたいからだ。通常のコマで教会にたどり着くまでの情景や会話を描写し、突然見開きいっぱい使うことで教会の異質さと規模、謎に包まれた場所であることを視覚的に伝えることができる。また見開きいっぱい使うと、「この教会は物語における重要な場所ですよー」というメッセージを伝えることもできる。文字情報では伝えられないインパクトを一瞬で伝えることができるのだ。心情描写にしても同じ。「懐かしい夏の暑さ」という表現が用いられていたとする。このとき読者が思い浮かべるなつかしさは夏休み最終日に宿題を終わらせようと机にかじりついているときの部屋の妙な蒸し暑さと焦燥感がないまぜになったときの「暑さ」なのか、それとも喘息で一度も入れなったプールの授業をプールサイドの日陰で眺めるとき、二の腕にじわりと浮かぶ汗の不快感と塩素の香るあたたかな空気の「暑さ」なのか。言葉で表現をするとそこにはぶれが生じ、想像力が働く。これ自体は別にいいことなのだが、漫画の没入感との相性が良くない気がする。主人公目線でものごとを見ているとき、主人公が痛がっている描写を見て「ああこれは体育館で膝を擦りむいた感じのあの絶妙な痛さだな」とか考える人はおそらく少数派だ。そのため上記の漫画にあるような受刑者の自省心とそこから立ち上がり、自分の身の丈に合ったできることを見つけてひたむきに頑張る姿を描写するときに生活に身近な慣用句を用いてはならないと思う。読者の大半は犯罪を犯して刑務所に入ったことはないため受刑者の心情とそれをおもんばかる管理人さんの気持ちは想像でしかわからないが、その未知なる感情を想像することこそが物語の醍醐味だ。その気持ちを「井の中の大海を知らずされど空の青さを知る」という聞きなれた慣用句で表してしまうと、想像力が停止してしまう。どういうことか。慣用句は身近な問題や教訓を伝えるために人が編み出した共通の言語であるため、とても身近でパーソナルな情景を思い出す言葉となっている。読者個々人に生じるそのブレを「井の中の蛙…=管理人さんの伝えたかったこと」というふうに明言してしまうことで人々の中で想像される「管理人さんの心情」がこの言葉の範囲内に限定されてしまう。これは読者の自由を制限することになるし大変狭い領域でしかこの管理人さんの思いを受け取ることができなくなってしまう。言葉を使わずに美容院の天井だけを映したのならば、読者は管理人さんの思いを知ったうえで受刑者と同じ目線で天井を眺めることができ、一人ひとり違ったメッセージを推測することができる。そこに言葉を使って表現を行うことは野暮でありメッセージ性をそぐことになる。例えるならば道徳の時間の心のノートで「この行いは正しかったでしょうか?」と問いかけられてるような気分である。「型」を見せない方がよかったのだ。
ものごとを言語化できる人は頭がいいという話はよく聞く。そして現代においてこの頭の良さや知性が一つのステータスとなっていることはオタクの窓から世界を眺めている私にもわかる。だが言語化することは正確に思いを伝える手段として優れているだけであってメッセージを届ける方法としては不適切だ。個々人によってそのメッセージが少しずつ変化することこそ抽象的な感情の配達のみが成しえることだし、そこには感情のゆらぎが必要となる。そして自分の記憶を振り返る際に物語から受け取った新しい見方があるから個々人の感情もメッセージに合わせてゆらぐし、揺らぎによって生じるものが「感動」なのではないだろうか。

つくしあきひとさんの漫画を読んでほしい。そこには幼いころに読んだ絵本と同じ未知の世界が広がっていた。初め私は糸という表現から芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を想像した。本作が違っているのは現世が別に不幸な場所でも脱出したい場所でもないところと、糸を上る理由が孤独の自覚と好奇心だということ。そして話の焦点が定まっていないところだ。この物語はある少女の悲しみと決意、そして少女が居る世界を描いているがそれ以上のものはない。世界を、少女を眺めて私は少女の孤独と寂しさ、たどり着いた先に何もないのではないかという恐れをひしひしと感じとったがそれは私の体験でありそこに言葉はなかった。言い表せない感情と感動は美しい世界と少女を見ることで生まれたものだしそれはコマを見ることで一部自発的に生まれたものだ。読み終えた時の不思議な浮遊感はほかの人と共有しようにも口にした瞬間に消えて落ちてしまう泡沫だ。これはそういう作品だし漫画という表現手段が最大限生かされているように思える。言葉はいらず、はじめからそこになかった。